無価珍、夢の実現に向けて

 

 カネもない、人もいない、時間もない、その状況下で夢を実現する。それが自分人生有限会社の経営者に課せられた宿命だ。人こそが、何もないこと処から、有形の形にすることが出来る存在である。悪いことに使うのでなければ、またそれが世のためになることなら、カネは何とでもなる。人の手もなんとかなる。しかしご縁との出会いは何ともならない。

 

ご縁

 ご縁の電車が来たら、その機を逃してはならない。カネも人もいなくても、一番大事な機(時)が到来したのだ。電車が来たら飛び乗らねばならぬ。それを逃すと、二度と来ない。後からカネや人のめどが立っても、電車が出たあとでは、何ともならない。自分が生きていられる時間は限られている。明日にも閻魔様から招集令状が来るやも知れぬ。

 ご縁との出逢いは、1億円の宝くじが連続で百万回当たる確率と同じである。自分がこの世に生まれてきたのも、同じ確率である。そのご縁を一生で一度のご縁、最初で最後のご縁と思うべきだ。

 その辺の市井の母親が、その気にされて、一億円を怪しい教団につぎ込む時代である。それが原因で安倍さんが殺された。カネなど何とでもなるのだ。カネとは貯める財産ではない。社会を有意義に過ごすための利用券である。

 

無価珍

 自分は荒野をさ迷い歩く乞食和尚と思えばよい。どんなに財宝を貯めても、来世には持って行けない。どんなに着飾っても死ぬ時は裸である。人は裸で生まれて裸で死んでいく。貴方が着飾った姿は、アレキサンダー大王の晴れ着姿より立派なのだ。それが死ぬときに、何になるのだ。

 布袋和尚は、弥勒菩薩の化身のお坊様である。和尚は三千世界を乞食のような姿で自由奔放に走り回っておられる。何物にもとらわれないから、自由奔放である。特定の新興宗教に縛られることもない。人生で何かに縛られれば地獄行きだ。和尚の背中には堪忍袋を抱えている。その中に「無価珍」というお宝を入れている。

 無価珍とは、カネでは買えない何物にも代えがたいお宝である。それが飛び出さないように、その袋口をしっかりの握りしめる。それを「堪忍袋の緒を締める」という。

 自分が考える「無価珍」とは何かを考えよう。私は志や夢が無価珍であると考える。

 

Dsc099581s 馬場恵峰書

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2022-07-26  久志能幾研究所通信 2444号  小田泰仙

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