松下幸之助翁は「人生は90%までが、いわゆる人知を超えた運命の力によって既に決まっている。人間の知恵才覚で左右できるのは、残りの10%に過ぎない。そう考えれば、人生、得意のときも、淡々と素直に謙虚に、わが道を歩んでいくことができよう。」と運命を断じた。しかし今回のお墓作りとご先祖探しの旅で、私は人知を超えた運命の力は90%どころか、99%にも及ぶことを感じた。人間の人生とは、運命を運ぶ大黒天に背負われた大黒袋ではないかと思うようになった。
授けられた生活袋
人は生まれたときに、天より人間という形の生活袋が授けられる。その袋は運命を運ぶ大黒天によって担がれて、ひたすら死という終着地に向かって運ばれてゆく。人間にその行き先を拒否はできない。人生旅の終着地に着いたとき、大黒様はその袋を火葬場にお役目として放り込む。お釈迦様を含めて一人の例外もない。袋としての人間に、死後で残るのは僅かな灰でしかない。人間として生きた証として、運んでもらっている間に、その袋の中に何を入れ、それをどう昇華するかが問われる。袋に入れて集めた多寡が問われるのではなく、集めたものをどう活用したかが問われる。
還暦を過ぎ、人生の終わりが見えてこれば、生活袋の中のものを少しずつ下ろしていくことが求められる。それを怠ると、遺族が大迷惑をする。多すぎる遺産なら、遺族を不幸にさえする。使いきれない財産が残れば、遺族が財産争いをするだけだ。隣国では、総帥の死後、兄弟間で財産争いの裁判沙汰、長男は刑務所行きである。何のために必要以上の汗を流して稼いだのかと、死ぬに死ねまい。
人生の下り坂を降りるときになれば、少しずつ荷物を下ろしていく。天はそのために体を少しずつ弱らせて、負荷を減らせと教えている。80歳になり20歳の若者と同じ元気さでは、無念で死ぬに死ねないだろう。
生活袋と堪忍袋
人間の多くは、欲望が多く詰まった生活袋を担ぐ。生活袋の中には、人生を送るのに必要な道具一式とそれにまつわる欲望が入っている。
それに対して弥勒菩薩の化身と言われる布袋様は、堪忍袋を担ぐ。堪忍袋には「無価珍」という計り知れないお宝が入っている。それが飛び出さないように、布袋様は堪忍袋の口をしっかりと握りしめている。それが人間様と違うところ。少しは布袋様を目指して精進しよう。
袋は伸縮自在
幸いなことに、その生活袋は人間の成長に合わせて伸縮自在に変貌する。その変貌の程度は自己鍛錬に依存する。その袋の中に何を入れて、何を入れないか、入ってきた縁の整理整頓清潔清掃(4S)ができるかである。入ったものをどう昇華するかが問われる。その如何によってその袋が宝袋にも劇薬袋にもなる。
袋の強度
その袋の布は、血も肉も通う生身の生命体である。その袋に過度な美食美酒を入れすぎて、袋がアルコール侵蝕されて穴があくこともあろう。その袋は天からのリース物件である。大事に使わないと、契約途中で天から解約通知が舞い込む。大事に使っても、最長100年後には、天に返さねばならぬ。自分の体はご先祖が手配してくれたリース物件である。それを忘れて、酒池肉林、甘味飽食に溺れるから、契約違反としてリース途中で解約となる。
その袋に分不相応に財を入れすぎて、袋の底が破れ、破綻することもあろう。己の器の大きさを自覚せずに、棚ボタの財宝を入れすぎたためだ。集めることだけを考えて、利他で分けることを忘れた天罰である。
その袋を目掛けて飛んでくる試練という矢で傷つき、破損することもあろう。どれだけ袋の表皮の強度を上げる鍛錬をしたかである。試練という鍛錬をしない限り、か弱い袋のままでは、価値あるものを袋に入れられない。天は心という器だけは、傷つきやすい裸のままに創られた。それを自覚して人生を歩まねば、言葉と言う凶器で心が傷つけられる。その自覚なき人生では道半ばで沈没する。
人生の生活袋
布袋 松本明慶大仏師作(「仏心」小学館より)
松本明慶仏像彫刻美術館の掲載許可を得ています。
布袋 馬場恵峰書
2021-08-31 久志能幾研究所通信 2137 小田泰仙
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