論語に学ぶ人生論、大垣市の経営論

 本を読む時は、初め(序章)から終わりの頁(結論)へと読む。

 スリラー小説でも、最初から読み、どんでん返しの結末に向かう。

 日本語の文書は起承転結での構成である。結論が最後である。

 しかしビジネス文書(テクニカルライティング)では、最初に結論を書き、その次に裏付けデータを書く。最後に結論が来ては、時間の無駄なのだ。それが国際標準の書き方である。こう書かないと、海外では読んでもらえない。

 

人生経営という書籍

 ビジネスや会社経営は、日本語の文書形態とは逆である。最初に結論、最終目的、経営理念、社是を宣言し、それに向かって、使える資源を最大限に活用して、目的を達成する手段を講じ、それに向かって全員で邁進する。

 人生経営も同じである。最初に志を立て、そのために学び、自分の使命・天命を自覚し、それに向かって全身全霊で、己の命を捧げる。それが人間としての生き方である。

 そうでないと死ぬ時に、人生を振り返り、「あの時に、やっておけばよかった」という後悔だけが残る。

 成り行きで生きては、動物である。それでは、人間として生きたことにならない。生き永らえただけである。何も世に残せない。

 

小川敏の論誤人生

 小川敏の当初の目的は、大垣市長になることのようであった。大垣市長になって何をやるかは、二の次であった。彼は目的と手段を取り違えたようだ。当初の公約がHPで残されていないので、それは推測でしかない。

 現在、大垣市のHPで公開されている公約から推察すると、小川敏に市長になるときに、明確な志があったとは思えない。その公約は、大垣市立図書館(現在、新型コロナウイルスの影響で閉館中)で、後日調べる予定である。

 小川敏は入社後6年で伊藤忠を退社し(追われ?)、超零細企業の家業を継いで、暗い道を歩いていたようだ。何が哀しくて超一流会社から、ド田舎の超零細企業に身を落とさねばならぬのか。それから40年が経ったが、今でも家業は超零細企業のままである。その会社のHPでは、会社規模も従業員数さえ記載していない(出来ない?)レベルなのだ。彼が有能なら、家業を大きくできたはずだ。だから現実は、伊藤忠にいたたまれなくなって退社したと推定される。

 彼が家業を継いで20年後、そこに偶然、前市長が急死をされ、それなら「市長でもやるか」で、大垣市長になったようだ。

 

最期の大団円で大金が消えた

 小川敏が、大垣市制100周年記念行事で、金をドブに捨てるように3億5千万円も浪費し、県内一豪華な新市庁舎(124億円)を建設するとは、まるでスリラー小説で最期の大団円で大金が消えるようなものだ。本来、大垣市のために志を立てて、この金を未来への投資で使うのが、正論である。今までの歴代市長が積み上げた実績を、自分の功績のように浪費するのは、結論と当初の志の順序が逆である。

 

市長が描くビジョン

 市長は、担当する街の未来ビジョンを描かなければならない。小川敏が公約で謳う大垣市の未来ビジョンには、総花的な展望で、どういう街にしたいかが全く見えない。その公約から「大垣」の名を消せば、どの街にも通用できる特徴のない公約である。それは小川敏のビジョンには志がないからだ。

 だから、小川敏が市長に就任以来、志がないから、無為無策の無能政治に迷走した。公示地価が19年間も連続で暴落し続け、大垣駅前商店街の80%が店を畳むシャッター通りになり、幽霊がさ迷う街になった。大垣中心市街地活性化計画は大失敗であった。

 それでいて小川敏は、自分たちの給与を岐阜県下一の高さにして、教職員の給与を県下最低にした。児童生徒一人当たりの教育費を県下最低レベルに落とした。元気ハツラツ市や芭蕉楽市で、園児児童を36度の炎天下で躍らせて、園児児童虐待が日本一となった。それも9年間も継続している。

 治水は放置され、市民のお安全が脅かされている。小川敏は、ドローン墜落人身事故でも説明責任を果たさず、ドローンである。それにつれて街が汚くなった。たまに大垣に帰省する人が、駅周辺の汚さを見て呆れている。小川敏はケチの精神で掃除費を削減しているからだ。

 市場の評価は、神の如くである。それほどに、志を立てることが大事なのだ。

 その小川敏の公約は、全てが惨憺たる結果である。政治は結果が総てである。小川敏は19年間も市長をやって結果が出せないので、無能なのだ。だから大垣市は県下一の没落を記録してしまった。

 

論語

 子曰、「吾十有五にして学に志す。

  三十にして立つ。

 四十にして惑はず。

 五十にして天命を知る。

 六十にして耳に順う。

 七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」。

 

孔子は、この節で一生を回顧して、人間形成の過程を述べている。

 子曰く、

 「私は十五歳のとき学問に志を立てた。

 三十歳になって、その基礎ができて自立ができた。

 四十歳になると、心に迷いがなくなった。

 五十歳になって、天が自分に与えた天命が自覚できた。

 六十歳になると、人の言うことが素直に理解できるようになった。

 七十歳になると、自分のしたいことをそのままやっても、

 人の道を踏み外すことがなくなった」と。

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 馬場恵峰師の人生

 次の論語の書は平成26年、恵峰先生から贈って頂いた。馬場恵峰先生は、「私はこの通りに生きてきた」と長崎県民栄誉賞受賞の祝賀会で、この論語を引用されて挨拶をされた。祖父、父と3代続いての県民栄誉賞受賞である。本来、馬場恵峰師は叙勲されてしかるべきだが、中国との政治環境の悪化の影響で、棚上げとなっている(県は国に叙勲の申請はしている)。

 馬場恵峰師は、2000年には中国浙江省(人口8000万人)から、教育に貢献したとして栄誉市民賞が贈られている。

Dsc02896s

 馬場恵峰県民栄誉賞受賞祝賀会で

 2013年12月23日    長崎インターナショナルホテルで

039a12102s 馬場恵峰書 平成26年 2014年

 

2020-04-12 久志能幾研究所通信 1534 小田泰仙

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