己の道は手のうちに

己を拝め

 キリスト教で「天にまします我らの神よ」と祈っても、仏教で「南無阿弥陀仏」と手を合わせても、神も仏も己を助けてはくれない。ただ見守っているだけである。己を助けるのは己である。己が人生の運命を握っているのに、それの努力をしないで、「神も仏もないないのか」と運命を嘆いても、それはお門違いである。

 人は自分を拝む勉強をしない。自分が行動を起こさなければ、人生は変わらない。

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 馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」(久志能幾研究所刊)より

 

背中を観よ

 自分の背中を観よ。しかし己は己の背中は見えないし、観たことはない。己を支えてくれるのは背中である。

 仏様が与えてくれた機会を他人の為に、人のために話をしなければ、自分は幸せになれない。いいことを、良いことは人に話さねばならない。黙っている人こそ、くせ者である。保身者である。

 人がしないから、させてもらっている。自分が幸せを作っていくのだ。実力の裏が教養である。早く勉強した人が、早く実力をつける。

 自らが人生の暗夜を自らの灯で灯せ。だからお釈迦様は「自灯明」を説かれた。

 

実践あるのみ

 夢ばかり見て、手本ばかりを見て、書を書くからうまく書けない。自分で考えて書けば、うまくなる。人の真似をするな。自分で考えて書け、覚えて書け、である。

 習字をするからうまくならない。作品を書きなさい。下手でもいいから高い紙に丁寧に書きなさい。そうすれば残るし、うまくなる。安い半紙に練習字を書くから上手くならない。

 だから書道を仕事に当てはめて考えるなら、師の行動を真似するな、自分で考えろ、考えて行動しろ。師の行動は、師の人格の表れである。それを真似しても意味がない。自分で考えて、自分の人格が現われる行動をすべきである。それが学びの成果である。それでこそ師を乗り越えられる。

 

我以外皆師

 書の教室に来ても、自分だけ先生から添削をしてもらったら、後は知らんふりでは成長できない。他のお弟子さんが先生から添削を受けている状況を見て学べ。それが「我以外皆師」である。人生二度なしで、一生勉強である。

 字書き恥かきで、実際に恥をかいて体験しないと成長できない。恥をかくことを避けるのは、自分が可愛くて、自分を守り過ぎである。それは自惚れである。これでは成長できない。

 これは全ての道(武道、芸道、学道)で、いくら秘伝書でノウハウを伝えても、血の滲む鍛錬を繰り返さないと名人にはなれない。ノウハウをいくら読んでも、実体験しないと意味がない。それが難しい。今はノウハウ書がオンパレードであるが、それでは薄っぺらな道しか得られない。それは本当の勉強していないことである。

 

厳師の教え

 自分を厳し指導してくれる師が運命を拓く。だからこそ「3年かけて師を探せ」である。真剣に叱ってくれる師が本物の師である。師たるものは自分に厳しく学びを忘れてはならない。

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 馬場恵峰書

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 馬場恵峰師 2019年12月12日、‏‎20:23(夜の部の講義)

馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」をテキストに講義中

 

若手エリートの末路

 私の前職の会社でも、私が主任の時、私の部署に入社してきたエリートと目された二人の若手がちやほやされ、泥臭い汗を流してきた私を追い抜いていった。そして会社より博士号を取るために大学に派遣された。しかしその一人は、数年後、処遇を不満として会社に泥をかける様に去って行った。もう一人は、引き上げてくれる役員が力を無くすと、閑職に追いやられた。それで精神の病になり、今は鳴かず飛ばすの状態となった。泥臭い汗をかかなかった咎であると思う。「若くして高座に上った」咎である。エリート意識で、命を上司に任せて、自ら人生の灯を掲げなかった咎である。自ら己を拝まなかったのは人間として怠慢である。拝まないから反省がない。

 そんな不合理な学閥優先の人事が横行した前職の会社は市場から消えた。仏様は良く観ておられると思った。「天網恢恢疎にして漏らさず」を実感した。

 

小川敏の末路

 小川敏はド田舎の大垣市で、東大卒というブランドが効き、偶然、市長職になれて、それを20年弱の長きに務めることになった。しかし頭がよくても智慧がなく、過去に地道な雑巾がけの修行をしなかったため、恥さらしな行事をしても恥とも思わない人間に落ちぶれた。結果として18年間で大垣市は衰退した。大垣の公示地価は半分以下に暴落した。大垣の顔である大垣駅前商店街は80%が店を閉めた。大垣市の児童生徒の教育環境を県下で最低レベルに堕とした。

 一番大事な教育をないがしろにしたのは、大罪である。大垣市の未来は大垣市長の手の内にあるのに、それを蔑ろにした。その職位にあって、やるべきことをやらないのを、仏教では、「悪人」という。

 

以上は2019年12月12日、「生き活き教養塾」で馬場恵峰先生が講義した内容を元に記述しました。

 

2019-12-23 久志能幾研究所通信 1432  小田泰仙

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