煙となって消えた
駅前のホテルで楽しい同窓会で53年前の夢を見た。その後、大垣駅前商店街をぶらついたら、楽しい想い出の詰まった玉手箱が開いてしまった。
そこは、大垣市長の小川敏が18年間の無為無策の無能政治で没落させた大垣の繁華街であった。53年前の浦島太郎が、今の大垣駅前商店街を歩いても、知っているお店がなくなくなっていた。ビルも壊されてなくなっていた。懐かしい亀も、死んだ状態のはく製みたいに、冷たい金属製に代わって大垣駅前の「死の亀の池」に鎮座していた。昔は生きた亀が、「駅前亀の池」で甲羅干しをしていたのに。この様は、まるで童話の浦島太郎物語である。
18年前は、大垣市の大垣駅前商店街はまだ繁盛していた。それを無能な政治屋の小川敏が無為無策で廃墟にしてしまった。小川敏は政治も経済も分からない。実施してきた政策が正気の沙汰ではない。
首相の安倍晋三も同じである。増税すれば、経済が悪化することが明白なのに、平気で増税である。正気の沙汰ではない。今の政治家は経済音痴ばかりである。
大垣駅前商店街の惨状
53年前の学友の同窓会が2019年11月9日(土)の18時に終わり、その足で駅前商店街に足を向けた。本来、休日の夕刻6時なら、大垣の駅前の商店街は、人通りが多いはずが、全く人が歩いていない。幽霊通りのようである。見てはいけない玉手箱を開けてしまったようだ。普通の人は、近くの同窓会会場のホテルからここまで、足を運ばないので、気が付かない(玉手箱を開けない)。
53年前の宴
私も中学、高校の時、母親に連れられて、大垣駅前商店街でカバンを買いに行った。そのかばん屋は、今はシャッターが下りている。
駅前商店街の眼鏡を作りに行った。当時、街で一番の眼鏡屋であったが、いまかろうじてお店が残っている。その両脇や近辺は、全て廃業である。
私が高校に入学した時、学校からの指導で何かのクラブに入らねばならないので、カメラ部に入った。そのためのカメラを親に買ってもらった。それが、私がカメラを趣味にした始まりである。その後、フイルムの現像をしに頻繁にカメラ屋に通った。そのカメラ屋は消滅して、今はない。
大垣駅前と商店街の中央にあった2軒の本屋は完全消滅した。数多く通った本屋である。
百貨店ヤナゲンで、松本明慶仏像彫刻展で明慶先生と初めて出会った。仏像を買った。ここから多くのお歳暮、お中元を贈った。今年の8月、ヤナゲンは閉店した。跡地はマンションである。
私もヤナゲンの果物屋の丸忠で、多くの果物を買った。松本明慶先生が、柿が大好物だというので、お歳暮として特産の干し柿を贈った。私の英語の先生に、病気お見舞いで、同じ干し柿を贈った。先生が感激してお礼の手紙が英文で来た。
その丸忠の社長は、ヤナゲンが8月末に閉店後、この10月に急逝した。心筋梗塞である。名古屋の御園座に芸能人が来ると、その付き人がよく、大垣ヤナゲンの丸忠まで指名買いに来ていた。その中の一人である水前寺清子も、丸忠の社長のファンで、名古屋に来るといつも付き人が指名買いで飛んできていた。
私はその丸忠さんと懇意になり、社長から丸順の今川順夫著『負けてたまるか』、『地獄のシベリア抑留記』を頂いた。
百貨店タマコシで、私は遊びにいきながら多くの買い物をした。今は、その跡地がマンションになっている。
私が前職の会社に入社するとき、保証人になってくれた社長のお店も人手に渡った。
大垣城の前のお寿司屋さんに、よく母に連れて行ってもらった。そこで子供のくせに1半のお寿司を平らげた。母は嬉しそうに私を眺めていた。
電気屋の電波堂で、こだわったオーディオを買うため、よく通った。当時、デンオンのアンプを買った。今は細々とCDを売る店になってしまった。
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夢の如し
私の53年前から今までの想い出は、煙のように消えたのだ。無為無策の無能政治で小川敏が、大垣から駅前の繁栄を消したのだ。多くの商店主が、涙を流して消えていった。急逝した丸忠の社長も、ヤナゲン閉店で心労がたたったのだろう。多くのお店の滅亡は、まるで夢の如しである。
この記事は、大垣の衰退の実態を知らない人への情報提供、現状把握として記載する。
次図は、大垣駅前商店街の西側の通りをヤナゲン前から、南に向かって歩いて行って、1キロ先の商店街の終わりで折り返し、東側の通りを元に戻ってくる道中である。その途中の風景である。土曜日18時の風景である。本来、繁華街として人出があってしかるべき。
右はこの8月に閉店したヤナゲン
次に東側に移り、北進する
2019-11-10 久志能幾研究所通信 No.1394 小田泰仙
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