私は余命宣告をされて、生きる意味を再確認した。人生の残り時間を意識すると、無駄なことをやっているわけにいかなくなる。この世では、自分の意のままならぬ命である。己の意識に、冷や水をかけてくれたのが、余命宣告である。人生を全力で生きてきて、人生の第四コーナで、チェッカーフラッグが振られたのだ。
人の選別
癌になってから、付き合って価値ある人と価値なき人との差が明白に見えるようになった。病気になり、命の危機に接せると、真の友人が明白になる。それが明徳である。口先だけの人が誰なのかが明白になる。そんな人と付き合っている時間はない。
此の世で残すもの
今からは、集めることではなく、何を世に遺すのか、何を与えるか、何を伝えるかが、切実な問題である。己は、今まで何のために生きてきたのか、それが問われている。お金を残すために生きてきたわけではない。名誉を残すために生きてきたわけではない。自分の務めを精一杯生きてきた思いがある。
それで遺産の処理方法も決めた。一部、公式の遺言状も作成した。お金を残しても、あの世にはもって行けない。お金はこの世での通行手形である。生きている間に使わないと意味がない。そういう点で決断が早くなった。使える時間が、命なのだ。
体の神秘の理解
癌の手術で、たった一つの臓器を無くすだけで、これだけ体が辛いとは、想像できなかった。手術後4か月たった今でも、体力が回復せず、まともに食べられず、まともに歩けない。天は無駄なものは作らない。頂いた命の尊さと頂いた命に感謝の日々である。生きているのが奇跡なのだ。朝、目覚めるのが、奇跡なのだ。
死ぬ力
頂いた命を、単に生き永らえさせるのでは、霊魂なき動物である。それでは人(霊止)として生んでくれたご先祖に申し訳ない。最期まで自分の意思で生きるのが死ぬ力だ。ベッドに縛り付けられ、管を体に入れられ、植物人間として生きるのは、死も同然である。単なる延命治療は受けたくない。最期まで、やるべきことをやり遂げて、人間の尊厳を保ったまま死ぬのが、死ぬ力だ。死ぬ力とは、生きる力である。
お釈迦様の弟子たちへの最期の言葉が、精進せよ、であった。お釈迦様はあの世があるともないとも仰らなかった。ただ死ぬまで精進せよ、である。
よく働いた一日は、安らかな眠りを誘う。素晴らしい人生でなくてもよい。やりたいことが出来て、悔いのない人生でありたい。よく生きた人生は、安らかな永眠をさそう。
2019-06-12 久志能幾研究所通信 小田泰仙
著作権の関係で、無断引用を禁止します。