冷や飯を食わされ、命拾い

 1990年、私は主流である事業部署から、非主流の部署に飛ばされた。その原因の一つは、私が上司Uからの縁談の話しを断わり、上司の心証を害したこと。宮仕えは辛いものだ。古い体質の会社の人事とは、上司の露骨な好き嫌いである。結果として、この上司と縁が切れたことで、命を拾うことになる。

 

自己防衛

 この上司Uは、1年下の同僚Dを好き嫌い人事で、欧州の海外担当に飛ばして、死に追いやった過去がある。同僚Dは、純粋な技術畑の人間で、営業には向かない性格である。それが明白なのに、彼は上司Uに、パリに飛ばされた。当時、パリの現地法人は経営的に悲惨な状況となっていた。彼はそこで心労で心身疲弊して、帰国後、病魔に襲われ、50台半ばで帰らぬ人となった。私や仲間は、上司Uが殺したと思っている。私が現地で彼に再会した時、疲れた顔をしていて、愕然とした覚えがある。その時、我々が日本から来ているのに彼は多忙で、一緒に飯を食う時間も段取りできなかった。

 私の母はこの上司に盆暮れの付け届けを欠かさずにしてくれた。だから海外に飛ばされるまでの悲惨な人事異動は免れた。私も多少は智慧があり、表だって上司には逆らわなかった。今にして母に感謝である。

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 馬場恵峰書 2006年

 

冷や飯部署

 その部署は通産省の出先機関(NEDO)の委託研究プロジェクトであった。その仕事の成果は、当社の利益に反映されない。政治的な意味合いを含めての会社の業務である。立場的には、社内出向のような立場である。そのため仕事を現場にお願いしても、現場の人は、その仕事が会社の利益に直接反映されないことを知っているから、露骨に仕事を後回しにされる。回りの目も、今までのカンバン商品の開発を担っていた設計者への目とは、明らかに軽んじた扱いの目に変わていた。私の冷や飯食いの時代が始まった。

 それでも上司が変わると、こうも職場の雰囲気が変わるのかと思うくらいの変化があった。今までがあまりに異常であった。

 

冷や飯という御馳走

 この部署では、社外の一流の会社との交流があり、その面で遅れている当社のレベルをいかにそれらしく見せるかの苦労をしながら、社外の会社の実態を見させてもらった。共同研究会社は、キヤノン、ニコン、横河電気、不二越という一流会社ばかりである。

 キヤノンは、この国のプロジェクトをうまく活用して、社員の育成と技術開発の応用に展開していた。そういう会社の経営例を見せ付けられた。

 経営層がこの国のプロジェクトを軽視した咎は、30年後、キャノン、ニコン等が世界的な企業に発展成長をしたが、当社は吸収合併され、世から消えたことで明らかになった。ここに経営の差の全てが現れていた。

 私の上層部の経営者の口ぶりや当部への扱いを見ると、お荷物の部署に飛ばされたのを悟った。私がこの部署に異動する以前に、当時の上司Mが、「この部署は国とのお付き合いでお荷物だ」と明言していた。あるプロジェクトをお荷物として扱うか、技術開発のご縁にして成長の糧にするかの差で10年後の会社が変わる。正に人生と同じである。その扱いは経営者の責任である。この上司はやり手で、超スピードで役員までかけ上ったが、その後、仕事以外の不祥事で会社を追われた。

 各会社の相互見学会もあり、自社を他社の鏡として観る勉強になった。それに対して、その面の利用が薄い当社であった。一流の他社の設備、研究姿勢、体制を垣間見たことは、後年の経営の勉強になった。

 

国の仕事

 仕事的には、とんでもないレベルを要求される技術開発ではあった。従来の1桁も2桁も違う加工精度が求められ、サブミクロン、表面あらさのレベルがオングストローム、加工時間が数日の世界である。機械を作る前に温度管理がいるクリーンルーム相当の建屋を造ることにもなる。またお役所の関係業務のため、報告書作成ややり方の勝手が分からず、訳の分からない世界であちこち頭をぶつけ、恥をかき、部長に笑われながらの日々であった。社内では絶対に経験できない仕事ではあった。

 

あるはずのない欧州出張が、実現したご縁

 そのご褒美として欧州の大学、研究所への報告出張が降ってわいて来た。本来、部長が出張する予定であった。その前年に、生産技術部のK係長が米国の自動車会社に納入出張中に心臓麻痺で事故死をされていた。そのため、海外出張前の医師の診察が厳しくなり、上司の部長Sがドクターストップで出張不可となり、私にお役が回って来た。

 私は、前年に論文最優秀賞で欧州に出張したので、パスポートはある。時期的に今からパスポートを取る時間はない。英語の素養はある。担当係長として開発内容は熟知している。部内のメンバーではその全てで適任者がいなかった。昔の元上司Uは、私を出張させたくなかったようだが、どうしようもない。

 亡くなられたK係長も私が開発に関係した機械の納入時での事故である。それも北欧の自動車会社での機械の納入実績があって実現した受注での納入業務であった。今にして、不思議な巡り会わせだと思う。これは冷や飯を我慢して頑張ったので、ご褒美で咲いた花だと思う。

 

言志四録からの学び

 この時から28年経って、馬場恵峰師による「言志四録」を出版した。その中に「已むを得ざるに薄りて而る後に諸を外に発する者は、花なり」を発見して、この欧州出張ができたご縁の意味を確認した。冷や飯の時代でも、黙って努力をしてきた精進が、「欧州の報告会出張」という花を咲かせたのだ。

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 馬場恵峰書 「佐藤一斎著「言志四録」五十一選訓集」

 久志能幾研究所刊

 

欧州出張

 欧州での国の研究成果報告会として、パリ大学、英国国立物理研究所、クランクフィールド大学研究所、ベルリン大学、アーヘン工科大学、オランダ国立研究所で、研究成果報告会を経験できたのは、何ものにも代えがたい経験となった。それも「飛ばされた」お陰である。

 英国国立物理研究所では、ニュートンが万有引力の法則を発見したりんごの木の二世が植えられていた。ここは普通では足を踏み入れられない聖地であった。

 

大名旅行

当時「日本は欧米から技術を盗むばかりで世界に貢献していない」というバッシングが盛んであった。通産省の技官から「こせこせした研究成果報告会ではなく、獲得した技術を欧米に教えてやるとの心意気で行け」との指示と、単なる報告出張ではなく、「欧州の文化もゆっくり見て来い」との配慮があった。2週間で4カ国7つの大学・研究所を訪問する余裕の大名旅行をさせて頂いた。これは仏様からのご褒美としか言いようがない。

Photo  英国国立物理研究所でのプレゼン後の記念撮影。私が撮影したので私は写っていない 

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 ニュートンのりんごの木の二世

 左端が著者、右から二人目は団長の井川阪大教授

 

ベルリンの壁崩壊の跡

 1989年11月10日にベルリンの壁が壊され、1990年10月3日に東西ドイツが統一された。その1年後に我々はドイツを訪問した。統一間もない東ドイツに足を踏み入れ、その歴史の風を垣間見るご縁を頂いた。なんとも不思議な歴史的な出会いであった。

 そこで路上の止められていた東ドイツ製の車のレベルの低さを見て、如何に共産主義社会では、技術が進歩せず、停滞するお粗末さを垣間見た。やはり自由な競争がないと、技術も文化も進歩しない。

 

Photo_3   ブランデンブルク門(東ドイツ側より撮影) 

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  20年間時間が止まっていた東ドイツ市街

当社の共産党体制

 それと対比されるのが、当時のわが社であった。当社の役員の世界は、学閥優先で、人格的に劣悪な人間が、役員でのさばっていた。仕事の上の実力での競争がないから、経営がおかしくなっていった。特定の学閥の人間しか偉くなれない。まるで共産党の密室人事である。同じような体質の会社が、現在でも世にはばかり、世間を騒がし、没落していっている。日産、東電、三菱自動車等である。日本経済停滞の元凶である。

 当社は、その弊害で業績が上がらず、多くの社員を死に追いやり、最後は吸収合併されて、消えた。ダーウィンの法則で、市場の変化に対応ができなっかたので淘汰された。それは自然の理であった。同僚のD君は、その犠牲者の一人であった。その他にも、私が一緒に仕事をした仲間が、在職中に20人以上も死んでいる。異常である。私がその毒牙にかからなかったのが、仏様のご配慮と今にして思う。

 

2019-05-19   久志能幾研究所通信 小田泰仙

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