人生の曼荼羅とは

 人生を俯瞰的に見ると、人生はピラミッドや高山の頂点を目指して歩む姿に例えられる。それは人生の宇宙観であり、緻密に築かれた城の石垣にも例えられる。

 

世界観

 人生の目標とする所が山の頂点なら、俗世間的に言えば会社の社長である。佛の世界ではそのトップは大日如来である。そこに達するには、地獄界、畜生界、邪鬼界、人間界、天界、菩薩の世界を経ないと到達できない。人は生まれながらに頂点で生まれるのではなく、試練・修行を経て悟りの境地に達する。お釈迦様も修行・試練・弟子の離散の地獄を見て、悟りの境地を得られた。お釈迦様は万能の存在ではなく、悩みある我々凡人と同じ人間である。また大日如来も単独では存在できない。その回りの菩薩、天、鬼がいてこそ存在できる地位である。

 

己が作り出す観念

 人生では、あるときは地獄の鬼と対面するときもある。不渡り倒産の危機に直面して、七転八倒の苦しみを得ながら進む地獄界のときもある。時には鬼となって相手に借金の返済を迫るときもある。天として(部下や会社の)守り佛として会社を自衛する四天王となるときもある。人間とは人を殺めるような鬼畜の性もあれば、童を愛する天女のような心の両面を持つ。その心は流転して無常である。すべて己の観念が作り出している世界である。

 

人間とは

 人間とは「人」と「人」の間にある「門」を毎「日」渡り歩き、悟りの世界を求めて歩く修行僧といえる。どれだけ富財宝を手に入れても、死ぬときは全て手放して裸であの世に旅たつ。それ故、人生では人に与えた価値で評価される。

 それを悟るにどれだけの失敗・恥・経験を積むかが、人生の受験勉強である。人は痛い目を経験しないと目が覚めない愚かな存在である。かの釈尊でさえその過程を踏襲された。せめて第二の人生までに悟りの「合格」世界に到達したい。そうできなかった人が、現世で幽霊の道に迷いこむ。帰らぬ過去の後ろ髪を引かれ、まだ来ぬ未来に目を向け、虚ろな目を向けて迷う生き様である。すべて人のせいにする被害者意識の人生である。

曼荼羅は己の履歴

 人生の曼荼羅に、自分の歩いた履歴が表れている。その曼荼羅の中に現れている佛に自分の宇宙観が現れる。出会うご縁は全て自分を良くしようと現れる佛様である。だから人生に無駄な縁は無く、自分以外は全て我が師である。貧乏神のコスプレで現れる逆縁の菩薩にも尊い教えがある。

Img_63961_2

  馬場恵峰書

 

2019-01-11   久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

 

コメント(0)