曼荼羅とのご縁

 曼荼羅の言葉は知っていたが、その詳細はおぼろげな理解であった。2014年11月20日、仙台市での松本明慶仏像彫刻展に出かけ、そこで絵佛師の岩田明彩師から内容を教えてもらった。それが曼荼羅との新しきご縁の始まりであった。ご縁とは足を使って自らが動いて、手に入る我が宝である。足で歩くから道ができる。

中門とは曼荼羅への入口

 弘法大師が、高野山の立体曼荼羅が広がる根本大塔前に中門を設置して、門の四隅に四天王を配した意味は深い。その先に人間の歩く道がある。まずその門を通らないと始まらない。人生の目的地までは千里の道のりである。

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 高野山 中門 四天王が睨みを利かす

2039a1174  広目天 大仏師松本明慶師作

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 持国天  大仏師松本明慶師作   2015年10月8日撮影

 『新約聖書』マタイ伝第七章に「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」という。「狭き門」は、キリスト教で天国に至ることが困難であることを例えた言葉である。転じて、入学試験や就職試験など、競争相手が多くて突破するのが難しいことの例えである。

 仏教でも同じことを教えている。人は狭い門の母の経道を通り、母親を苦しめて人間界に生まれてきた。決して大門を楽に通ってきたわけではない。大門は人も動物も生き物が通ってくる。その中で魂を持って生まれてくるのは人間だけである。魂を持った人のみが、その次の中門に入れることができる。人は自分の使命に向って進む。動物は欲望のまま生きる。中門に入界審査官の四天王が立ち、通る人の心に問うている。己はその四天王の目を直視できるのか。その先には大宇宙を表す立体曼荼羅が広がっている。己の目的地はどこか。

 

人の狭き門

 人として生まれたのなら、構えた門の下に何を置くかである。門の下に「人」を置けば「閃き」である。門の中に人がチラッといるのを見るという意味である。閃きは生きている人間にだけに与えられている。閃きは仕事、修行において求めるものを探求し艱難辛苦の果てに天与されるもの。贅沢三昧の極楽温泉に浸かり心が緩んだ人には授からない。

 「間」とは門を閉じても日光、月光がもれるさまから、隙間を意味する。月の光は日に照らされて放つ光である。だから「閒」とも書く。言動から佛性の光が漏れ出るのが人間である。己は縁ある人に何を照らし与えているのか。功徳ある照らす存在でありたい。光を吸い込むブラックホールの存在では哀しい。

 「開く」は「門」+「幵」で、「幵」は、両手の象形である。門に両手をかけて開くの意味を表す。己の人生の新しい門は、己の両手で渾身の力で押さないと開けられない。開けられないのは門が重いからではなく、力の出し方が足りないのだ。

 「才」を置けば「閉じる」である。「閂」も同じである。門を木のかんぬきでとじた様を表す。己という人生の門にかんぬきをしては、人生は始まらない。

 門の下に「口」を置けば「問う」、「耳」を置けば「聞く」。人生を生きていくために、己の門の下に何を置くかが問われている。かんぬきだけは置くのを避けたい。見ざる聞かざる言わざる、ではサルの畜生である。

 門の下に心を置けば、「悶える(もだえる)」。口には出さずに、心を門の下に置いて公衆に晒す状態である。智者の行為ではない。

 

Dsc002342   馬場恵峰書 「あせって」の書体にほれ込んで入手した

2019-01-13 久志能幾研究所 小田泰仙

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