丸順の最高顧問と面会
2014年7月31日午後、図書館を抜け出し、本書『命の器で創る夢の道』を、秘書を通じて株式会社丸順の今川順夫最高顧問に進呈するため丸順を訪問した。秘書の小野さんと面談中に、今川氏から携帯に電話が入り、想定外に今川最高顧問との面会が実現した。当初は、8月末の面会を予定していた。訪問したときは、明後日(8月2日)の講演会(聴衆500人)の準備で、頭が一杯の状態であったそうだ。1時間半ほど面談をして、恒久平和の碑の除幕式の写真や、父も写っていたダモイ会の写真等も見せていた。
氏はシベリア抑留中も、帰国後に会社を起こすとの夢を抱いて重労働に耐えてこられた。その夢があったから生きて帰国できたようだ。また言うに言われぬ御仏の計らいで命が助かった場面も多くあったという。その後、関連会社を含めると4,000名を超える社員を抱える会社に成長をさせらたた。現在(2014年)、91歳で矍鑠とされている。
講演会ビデオ撮影の準備
面会後、15時ごろ図書館に戻ったら、クーラが故障とかで、今夏一番暑い午後を過ごすことにはなったが、それを2時間は免れた。その後2時間ほど図書館で勉強したが、若い人たちは熱さにもめげず、汗をかきながら帰宅もせず勉強をしていた。「オニ」の眼ではないが、私も帰りそびれて17時まで受験勉強をする羽目になった。やはり他人の眼は必要である。
今川様よりビデオ撮影の許可も頂いたら、前に注文してあったビデオカメラも当日に入荷しており、急遽知った講演会の準備は整った。当初は8月16日用のビデオ撮影のための準備であったが、なにか仏様のお導きのようだ。
今川順夫最高顧問の講演会
2014年8月2日、ソフトピアジャパン情報工房ホールで、約550名の聴衆を前にして講演会「負けてたまるか シベリア抑留を生き抜いた男の人生」があった。偶然2日前に今川氏と面会したご縁で、この非公開の講演会の存在を知り、参加させて頂いた。今川氏は「こんな所で死んでたまるか、オレは帰国して起業するんだ」、という夢、志があったから、シベリアの地獄の抑留地から生きて帰国できたと回想される。
シベリア収容所の地獄
シベリア収容所では零下60度の中での重労働で体を酷使させられる。建前では零下40度以下の屋外労働は禁止だが、実際は建前無視で屋外の重労働に駆り出された。多くの若い仲間は、朝起きるとベッドで冷たくなっていた。死亡した仲間を弔う役目を申し出て、カチンカチンに凍った6名の戦友の遺体を大八車で運び、埋葬した。極寒の抑留地では凍土で被せる土もない。僅かに手に入ったコケを戦友の遺体の顔の上に乗せるのが、せめてもの供養であったという。その後、その同じ大八車で、今日食べる食料品を屋外の倉庫から収容所のバラックに運ぶ労働に従事させられた。シベリア収容所とは、そういう残酷な状況の連続である。
神仏のご加護
過酷な屋外重労働が続いたが、あるとき第二シベリア鉄道の枕木への穴あけ用錐の修理で、その才が認められ、工具修理のため工場内の作業に回されたのも生還できた一因だという。芸は身を助けるである。亡くなった母親と仏様が守ってくれたと回想をされた。極限状態を体験された方は皆、神仏の存在を感じるようである。私の父も洋裁の腕があったので屋内工場でミシン作業に回されて、生還できた。それで今の私の命がある。神仏に感謝である。
今川氏は、もともとお元気の体ではあるが、それだけで生きて帰れるわけではない。運命と気力が命を長らせられた。故郷を思い、明日の夢を抱き、忍耐をして帰郷され、現在(2014年)91歳で、耳はすこし遠いが元気で矍鑠としてみえる。
死に直結する飢餓状態
収容所では、三度の食事は最低限の量しか供与されない。それで毎日重労働を強いられる。栄養失調になり下痢をして医務室の運ばれる戦友がいたが、薬がなく戻ってこない戦友が多くいた。栄養失調で倒れれば、死へ直行である。
一日の食料は、朝は雑炊で茶碗に半分の量である。昼食はシャビシャビのスープと黒パン350グラムであり、夕食も雑炊である。翌日の昼食のパンは夕食時に配給されるため、夕食時や空腹に耐えかねて夜の間に食べてしまう仲間も多い。そうなると次の夜まで食べるものは何もなく、栄養失調で倒れる者も多く、帰らぬ人となった仲間も多い。残酷なパンの支給方法である。
これで一食一人分の配給
死への罠
収容所の近くに、保存食の塩漬けのニシンを入れた樽が置いてあった。その樽の後ろ側が壊れていてニシンがはみ出していた。飢えた戦友はそれを衛兵の目を盗んで取り口に入れて食べるのだが、衛兵も見て見ぬ振りをしていたそうだ。しかし塩漬けのニシンはそのまま空腹の胃に入るとてきめんに下痢である。それは死を意味する。誘惑に負けて斃れた仲間が不憫でならないという。
今川氏のシベリア抑留体験談を紙芝居で構成して演じてくれた。
シベリア抑留後に起業
今川氏は、大垣市林町で生まれ、帰国後、林町で1952年に起業された。私も1歳の時(1951年)に彦根から大垣に来て18歳まで、大垣市林町の近江絹糸の社宅で過ごした縁がある。その後、今川氏は室村町4丁目にも住み、室村町4丁目のお地蔵様の周りで遊んだという。
父は生前、シベリア抑留の話を私にしたことはない。今川氏によれば、抑留経験者は皆同じで、言うに言えない社会的な雰囲気であったという。父も話せないような辛い体験をしてきたのだと、今回の今川氏の講演を聞いて感じた。今は(2014年当時)私には試験直前の貴重な時間であるが、それを上回る価値ある時間であった。今川氏のお話を聞かせて頂いて感謝である。
2018-06-05
久志能幾研究所 小田泰仙
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